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Jazz Japan 2016年の記事より

2022年08月25日(木)

歌に色を添えるのでなく、生のままの状態で曲が提供されることで、そこで歌われる景色をリスナーそれぞれに想像してもらいたい。

新しい世紀の "小唄ジャズの登場“に、背筋のあたりをゾクリと撫でられたような気がした。その感触は新鋭のポップスを聴くようであり、フェイク・パートやアドリブ・パートにおいてさえ萱原恵衣の声は心地良く軽やかで、 創作音楽をクールに唱ってみせるような肌ざわりである。何よりほぼ全編がバラードなのにもかかわらず楽器との相性により各曲でサウンドは思わぬ色彩を帯びていき、およそスタンダードジャズの定番からは想像もつかない構成でそれが展開されるのだ。そして、これまでになく生々しい情景をその声に映し見せてもらうことになる。

「アン・バートンやクリコナー、ジューン・クリスティに影響を受 けました。 感情を前面に押し出して頑張って歌うタイプのジャズ・ ヴォーカルは好きじゃない。 歌に色を添えるのでなく、生のままの状態で曲が提供されることで、そこで歌われる景色をリスナーそれぞれに想像してもらいたいわけです。 もちろんジャズの良さはあの独特のビート感ですから、さりげなく体から醸し出されるビートだけを歌の支柱にして、そこで私は一体何ができるだろうかという ことを探ってきました。大胆なスキャットやスピード感あるスキャットがお好きな旧来からのジャズ・ファンや関係者たちから、 そのために辛い言葉も投げかけられたし、 何度も歌を捨てようと思いましたが、やっと ”そう、これが私の表現したい世界!”っていうものが目の前に見えてきたんです」

大阪芸術大学を卒業するまでさほど歌うことに興味がなく、ジャズに接する機会もなかった。唯一、美容師の道を諦めた時に手習いとして入った音楽スクールで、ジャズの講師に教わったことが小さな火種となる。そこで萱原はみるみる頭角を現わし、スクール主催のコンテストの大阪大会や全国大会の常勝者となっていた。そしてふと友人と立ち寄ったジャズ・クラブで聴く橋本悠子の声に衝撃を受け、まさに人生を変えられることになる。

「表情はちっとも変えないのにどこから湧いてくるのかもの凄いビート感がその声には乗っていました。 それで “このままじゃいけない” と、 何のアテもないままに東京を目指したんです」

まどろむようで、 アンニュイで、ノスタルジックで、ノンヴィブラー トな発声。本人いうところの“色の無いヴォイス”かと問われれば、 あるいはそうかも知れない。しかしだからこそ聴者はその声に、それぞれで遠くまで想念を馳せらされている。また一方、だからこそ 共演する器楽奏者の音としっくり馴染むのか、これほどひとつ音像として結ばせられる声も他にないと思える。

「上京してきた時に、 何のアテもなく彷徨い、怪しげなパブで歌わされたこともありました。でもそんなところで幸運な出会いがあ り、それを辿って巡り会えたのが現在の師匠・しげのゆうこ (vo)さん。彼女は優秀なヴォイストレーナーであり、レーベル・オーナーでもあります。 以来いろいろジャズ・クラブやバーを紹介してくれて、自信がついてきたのを見計らって今回のデビュー作「パサージュ」の録音の機会をくださいました。私のほうも外野から飛んでくる辛い野次の呪縛から抜け出せたところで、逆にお客さんから好意的な声が増えたのもあり、ちょうどCDを録音したいなと思っていたところだったんです。 プロ活動14年目にして、初めて自分から出した希望でもありました。ひとつの目的は栗林すみれ (p) ちゃんとの共演です。 何も分からず、何の欲もなく臨んだ録音なのに彼女との共演と自分の好きなバラードのラインアップ だけは他に譲る気はありませんでした」

〈コルコヴァード〉や〈コーリング・ユー〉で立ち昇る官能と昂揚は、萱原の声と栗林のピアノの、単に歌手と伴奏者の関係ではない。まったくもって新しい世紀のアーティストどうしの出会いにより生まれたひとつの新種小唄ジャズだ。新感覚を持った鈴木大輔(g)のギター・プレイも同様。三木俊雄(ts) や加藤真一(b)や藤井 学(ds) といった百戦錬磨のヴェテランたちからの温かい眼差しに見守られながら、見事な異種交配の儀式が完遂されたらしい。そして、まさに萱原という歌手の最初の通過儀礼="パサージュ”は、 ここに成されたように思える。
(重森洋志)

Adomin

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